世界の取引所、先物取引は、1730年の大阪堂島米会所が始まりです。この事は、世界中で認められていますが、案外日本人はそのことを知りません。日本人、特に大阪人には、この事を是非知ってもらいたいし、誇りにしてもらいたいものです。
1700年代、大阪は天下の台所と呼ばれ、経済の中心地でした。そして大阪は、当時世界に4つしかない100万人都市の江戸を支えていました。江戸100万人のうち半分は武士であったのに対し、大阪は50万人都市で武士は数千人程度、まさに商人の町でした。1730年、徳川幕府8代将軍吉宗時代に、大岡越前守が初めて認可した大阪堂島米会所が、正式な始まりです。
実はその100年前には、淀屋橋の由来でもある、天下の大富豪淀屋の庭先で、米開所は始まっていましたが、1705年に取り潰しにあったという事もあり、あまり歴史的には知られていないのです。実は中之島の建設も取引所の開設も、涜屋の影響がありました。先物取引が、幕府の学者や、当時の最先端の知識人が編み出したシステムではなく、大阪の商人が考えたシステムで、300年経っても世界標準で用いられているということは、すごいことなのです。
実は「くだらない」の語源も当時の大阪に由来していました。江戸時代では、天皇が京都にいらっしゃった関係で、今とは逆で、大阪から江戸へ行くことを下りと言っていました。そして天下の台所である大阪から江戸へ行くものは「良いもの」すなわち「下るもの」であったわけです。逆に「下らない」ものは、つまらないものを意味したのです。 江戸時代、コメの収穫量のことは石と呼びました。そして石高がその国の規模を表していたわけです。一石は150キログラムで、当時の人が1年で食べる量に相当していました。取引は米を換金して行っていたわけですから、コメは準貨幣でもありました。さらに現代とは異なり、毎年の収穫量も大きく変動することがあったため、米の価格がいかに重要であったかがわかります。
ではなぜ大阪が発祥の地になり、大阪で取引所ができて公認されたのか。一つは取引の権利を持っていた米商人の存在がありました。当時1351人の米商人が気概を持ってこの取引所を維持しようとしたという点があります。そして涜屋のような大店(おおだな)が、市場を破綻させないよう全面的に支えていました。滝尾は大名や幕府にお金を貸していたような大商人であり、その金額は銀一億貫と言われています。現代の価格でいうと約100兆円であり、国家予算と同じくらいの財を持っていたわけです。涜屋はそれほどの財力を有していたために、最終的に幕府の反感を買い取り潰されてしまいました。
現在の東京の蔵前国技館の辺りに、当時は蔵屋敷があり、その米蔵にある米の貯蔵量で、江戸の米価が変動していました。一方で、大阪堂島には、全国の各大名の蔵屋敷が集結していたわけですが、その蔵屋敷の米の貯蔵量で米価を判断していたというわけではありません。堂島では、米の産地の気候や様子、産地から大阪へ来る船の量、時期を基に、米の価格を決めていたわけです。関西の米商人の秀でた先見性がベースとなって、いわゆるデリバティブや先物取引が生まれました。
ではどのようにして、堂島で決定した米価を全国に伝達していたのか。実は、堂島で決定された米価を、旗を使って全国に伝達していました。専門家によると、大阪から岡山までの170km、現在新幹線で約50分かかりますが、なんと当時17分でそれを伝達することができました。時速でいうと、700キロほどになるそうです。大阪の街中に矢倉を組み、旗で情報を発信し、望遠鏡で確認し、次の人へ情報を伝達していました。
現在も旗振り山という山が、明石の方に残っています。山間部の見晴らしの良い地点は、殆どがそのためのものでした。明治半ばには電信技術が開発されていたにもかかわらず、大正の半ばまで旗振り師が活躍していました。彼らは師弟関係を築いて代々それを継いでいました。ステータスもあり収入もありました。江戸までは、山も多く、箱根は飛脚で情報を伝達していた関係で8時間かかったそうですが、それほどの手間や時間をかけても、大阪の堂島で決定された米の価格というのは、それだけ価値があり、重要でした。その情報は前日との価格差分で表され、暗号化して伝達されていました。その暗号化の方法も数種類に及んでいたそうです。