―中国とロシアの公使、アジアを代表する二つの大国で勤められたご経験は、珍しいことなのでしょうか?またこの二国であることには意図があるのでしょうか?
中露両方の国を経験した人は、外務省でも意外と少なくありません。チャイナスクールの人がモスクワの日本大使館の政務部で勤務したり、ロシアスクールの人が北京の日本大使館の政治部に勤めたこともあります。勤務先が習得した言語の国ばかりよりも他の国もあった方が、視野が広がるという発想によるものではないでしょうか。
私が外務省入省(1980年)当時ソ連を選んだのは、冷戦たけなわで日本にとっていわば仮想敵国だったことと、更に「なぜ社会主義はうまくいかなかったのか」という関心を抱いていたからです。一方当時の中国は、文化大革命が76年に終わったばかりで混乱の最中今後どうなるか分からないという感じで、今ほど世界に対する影響力もなく、私もそれほど関心を持っていたわけではありません。その後、世界情勢の中で中国の重要度が増すにつれて、関心も高まっていきました。
―外交官をなさっている中で、どういった使命感をお持ちでしょうか。
一般論として日本にいる人は、日本での見方、考え方を軸に動くことが当たり前ですよね。しかし外国では、日本に居るだけでは分からないような他国間の関係などを知ることが出来ます。我々の使命は、その場で知った価値観や情報を日本の方々に紹介することにあります。それらの情報を踏まえて考えた方が日本にとって良いからです。踏まえるというのは、それを「受け入れる」という事ではなくそれを「念頭に置いておく」という意味です。
―「紹介する」とは、誰に対してですか?
我々は政府で働いていますから、第一は勿論政府内です。だけど、私の考えでは『パブリック・ディプロマシー』を共著で出したこともあるように、パブリックに対しての説明責任もあると思っています。またそれは、相手国に対しても言えます。例えば在中国日本大使館広報文化センターに勤めていた際には、中国に対してマスコミを通じて、あるいは直接に説明していました。
―著書は、日本で今まであまり注目されてこなかった中露国境交渉の詳細を紹介されていましたが、中でも私が注目したのは、80年代後半以後の中国がそれまでの頑なな姿勢から一転しロシアのシグナルを見極め動いた過程です。中露両言語の資料を参考に書かれた大使の著書から中露のやりとりを学ぶことで、今後の日露交渉を考える上で選択肢を広げることが出来ると考えました。
この本は、確かに公開されている資料の中からわかる範囲内で流れをおさらいしストーリーを描いたものです。しかし注意しなければならないのは、中国にしろロシアにしろ、自国にとって都合のいい資料は出すが、都合の悪い事は出さないことが有り得るということです。よって我々の知らざる論点というのもあり得て「中国とロシアの交渉をどう解釈するのか」という議論はつきないです。私の推論は、この本の行間に滲み出ているかもしれませんが。
しかしいずれにしろ、もう手打ちにしよう、交渉をまとめようとなったのは事実で、「それが双方の歩み寄りによるもの」だということもまた事実なのです。