岡安安明氏

大阪堂島商品取引所理事長岡本安明氏に訊く
世界中で利用されている先物取引は大阪発祥だった

先物取引は、現在世界中で行われているが、発祥は日本の大阪である。現在、先物取引をはじめとするデリバティブはどのように社会で利用されているのか。大阪堂島商品取引所理事長・岡本安明氏に取材をした。

※本取材は平成27年10月19日に行われたものです。(本誌4号掲載)

―大阪堂島商品取引所とはどのような組織なのでしょうか。

まず、大阪堂島商品取引所は、法律によって規定されている組織です。法律に規定されている取引所の形態として、日本では、株式会社組織方式と会員組織方式の2種類があります。大阪堂島商品取引所は会員組織方式の取引所に当たります。現在日本には商品取引所が2つあります。1つが株式会社組織である東京商品取引所で、主に工業品を取引しています。そしてもーつ一つが大阪堂島商品取引所であり、私共は農産物を専門として取引しております

―会員組織と株式会社組織はどのような点で異なるのでしょうか。

会員組織は取引所を必要とする方が集まって開設した、自治組織であるということです。そして出資額に関わらず、総会での発言権が一会員一票ということになっています。会員の総意は、基本的に収益よりも、取引所という場の形成に重きを置いています。それに対して、株式会社組織ではやはり収益を上げること、配当が重要となってきます。また、システム投資などの資金を集めることや、株主総会における意思決定が迅速であるという優位性があります。

―会員組織では、具体的にどのように組織運営をされているでしょうか。

会員組織では、いわゆる株式会社の株主総会に相当する、会員総会で全体的な重要事項を決定しています。会員総会によって選出された理事による理事会が担当しています。理事会は、株式会社における取締役会に当たります。

私がこの業界に入った約30年、前日本に商品取引所は17もありました。そして取引所にはそれぞれ監督官庁が存在します。証券関係の取引所の監督官庁は金融庁ですし、工業品関係は経済産業省管轄、私共のような農産物関係の取引所は農林水産省管轄であるという事です。欧米にはこのような管轄区分はないのですが、日本では監督行政が分かれているという事です。大阪堂島商品取引所は農林水産省の管轄組織であり、公的な機関です。

恐らく政府でも、監督行政の統合という総合取引所構想が進められ恐らく政府でも、監督行政の統合という総合取引所構想が進められているかとは思いますが、現在日本にはこのような省庁管轄の区分があり、監督官庁の出身者が取引所の理事長を務めることがほとんどでした。

大阪堂島商品取引所の母体は、戦後昭和27年の規制撤廃を経て発足しました。その時は、統制品であった米の将来の上場を視野に入れ設立したのです。食糧管理法により米が統制品であった時代は、政府がそれを管理するわけですから米の取引所はなかったのです。2011年8月8日に、実に72年ぶりに米が上場されました。勿論JAを中心とした反対もありました。昔は日本国内で収穫された米のほとんどをJAが集荷していましたし、今でも4割程度を集荷しています。上場というのは、米に自由に値段をつける場ができた、という事です。つまり、それまでJAが価格を決定していたものを、より公に価格をつけることができるようになったという事です。

現在では、大阪堂島商品取引所は米に特化しています。さらに単純に言えば、我々の業務は「売り」と「買い」のマッチングです。その価格で、米を売りたいと考える人と、買いたいと考える人が同数になったところで価格を決定するという仕事です。

そしてもう一つは、受渡日です。買う人はお金をその日までに準備し、売る人は商品を準備する。この受け渡しもなかなか大変な業務です。

―大阪堂島商品取引所が今後どのような役割を担っていくのでしょうか。

米の価格を正しくつけるということです。我々は、米の価格を決定する日本で唯一の公的な機関ですし、日本の米の価格を正しく決定するという意味では、世界で一つだけの公的な機関なわけです。これが最大の任だと考えています。そして、米の取引の規模を拡大することで、商い全体を活性化させることだと思います。

―先物取引は、現在どのように利用されているのでしょうか。

主な先物取引の役割はヘッジングです。例えば農家が米を作る際、今の米の値段からすると半年後にこの程度の収穫があれば採算が合う、と見込んで米を作ります。しかし、その時が大豊作で、米の値段が大暴落したら、たちまちその農家は見込みよりもはるかに少ない収入しか得ることができません。しかし、半年後の価格をあらかじめ固定しておけば、そのような価格変動によるリスクもありません。

これは米を買う消費者側にも言えることです。例えば牛丼屋などが多くのお米を取り扱っていると思いますが、現代では価格変動が起こったからといってやすやすと自分たちの商品の価格を変えられないと思います。「今年は米の値段が上がったから、牛丼も100円値上げする」「今年は安かったから今までと同じ」とすることは難しいですよね。そうすると、価格が上がった場合、今までと牛丼の味が全く同じでも自分たちが損をしてしまうわけです。そうならないように、あらかじめ先物取引によって価格を固定しておくのです。

一つ勘違いしてほしくないのは、これらの先物取引は、自分たちが儲けるために行うのではない、ということです。先物取引、というと投機的で大げさなイメージを持たれるかもしれませんが、あくまで価格を安定させるために行っている取引なのです。そのため、もちろん米の値段が将来固定していた価格より上がれば、先物取引をしていた農家は利益機会を喪失したと考えるかもしれませんし、米の値段が将来固定していた価格より下がれば、米の消費者には逸失利益が生じたといった見方もできます。しかし、目先の価格変動によるリスク、リターンを考慮せずとも安心して取引ができることに先物取引の意義があるのです。

―先物取引は現在世界標準という事ですが、どのような歴史的経緯があるのでしょうか。

世界の取引所、先物取引は、1730年の大阪堂島米会所が始まりです。この事は、世界中で認められていますが、案外日本人はそのことを知りません。日本人、特に大阪人には、この事を是非知ってもらいたいし、誇りにしてもらいたいものです。

1700年代、大阪は天下の台所と呼ばれ、経済の中心地でした。そして大阪は、当時世界に4つしかない100万人都市の江戸を支えていました。江戸100万人のうち半分は武士であったのに対し、大阪は50万人都市で武士は数千人程度、まさに商人の町でした。1730年、徳川幕府8代将軍吉宗時代に、大岡越前守が初めて認可した大阪堂島米会所が、正式な始まりです。

実はその100年前には、淀屋橋の由来でもある、天下の大富豪淀屋の庭先で、米開所は始まっていましたが、1705年に取り潰しにあったという事もあり、あまり歴史的には知られていないのです。実は中之島の建設も取引所の開設も、涜屋の影響がありました。先物取引が、幕府の学者や、当時の最先端の知識人が編み出したシステムではなく、大阪の商人が考えたシステムで、300年経っても世界標準で用いられているということは、すごいことなのです。

実は「くだらない」の語源も当時の大阪に由来していました。江戸時代では、天皇が京都にいらっしゃった関係で、今とは逆で、大阪から江戸へ行くことを下りと言っていました。そして天下の台所である大阪から江戸へ行くものは「良いもの」すなわち「下るもの」であったわけです。逆に「下らない」ものは、つまらないものを意味したのです。 江戸時代、コメの収穫量のことは石と呼びました。そして石高がその国の規模を表していたわけです。一石は150キログラムで、当時の人が1年で食べる量に相当していました。取引は米を換金して行っていたわけですから、コメは準貨幣でもありました。さらに現代とは異なり、毎年の収穫量も大きく変動することがあったため、米の価格がいかに重要であったかがわかります。

ではなぜ大阪が発祥の地になり、大阪で取引所ができて公認されたのか。一つは取引の権利を持っていた米商人の存在がありました。当時1351人の米商人が気概を持ってこの取引所を維持しようとしたという点があります。そして涜屋のような大店(おおだな)が、市場を破綻させないよう全面的に支えていました。滝尾は大名や幕府にお金を貸していたような大商人であり、その金額は銀一億貫と言われています。現代の価格でいうと約100兆円であり、国家予算と同じくらいの財を持っていたわけです。涜屋はそれほどの財力を有していたために、最終的に幕府の反感を買い取り潰されてしまいました。

現在の東京の蔵前国技館の辺りに、当時は蔵屋敷があり、その米蔵にある米の貯蔵量で、江戸の米価が変動していました。一方で、大阪堂島には、全国の各大名の蔵屋敷が集結していたわけですが、その蔵屋敷の米の貯蔵量で米価を判断していたというわけではありません。堂島では、米の産地の気候や様子、産地から大阪へ来る船の量、時期を基に、米の価格を決めていたわけです。関西の米商人の秀でた先見性がベースとなって、いわゆるデリバティブや先物取引が生まれました。

ではどのようにして、堂島で決定した米価を全国に伝達していたのか。実は、堂島で決定された米価を、旗を使って全国に伝達していました。専門家によると、大阪から岡山までの170km、現在新幹線で約50分かかりますが、なんと当時17分でそれを伝達することができました。時速でいうと、700キロほどになるそうです。大阪の街中に矢倉を組み、旗で情報を発信し、望遠鏡で確認し、次の人へ情報を伝達していました。

現在も旗振り山という山が、明石の方に残っています。山間部の見晴らしの良い地点は、殆どがそのためのものでした。明治半ばには電信技術が開発されていたにもかかわらず、大正の半ばまで旗振り師が活躍していました。彼らは師弟関係を築いて代々それを継いでいました。ステータスもあり収入もありました。江戸までは、山も多く、箱根は飛脚で情報を伝達していた関係で8時間かかったそうですが、それほどの手間や時間をかけても、大阪の堂島で決定された米の価格というのは、それだけ価値があり、重要でした。その情報は前日との価格差分で表され、暗号化して伝達されていました。その暗号化の方法も数種類に及んでいたそうです。

―将来金融や証券に携わりたいと考えている学生は、在学中にどのようなことを学ぶべきでしょうか。

将来金融に関わるか関わらないか、それに関係なく、物の価格が変動することには必ず何か理由があり、その価格の変化を見ていくという事が大切です。為替もそうです。価格の変動に、それぞれ相場変動要因というものがあります。収穫量で変化する農産物はわかりやすいかと思います。収穫量が多ければ価格が下がり、少なければ上昇します。

また、需要や代替物との兼ね合いももちろん存在します。一例としては、コカ・コーラが砂糖を使わないと言った瞬間に、砂糖の相場がガクッと低下したこともありました。石油についても、それに代わる資源が見つかれば大きく相場が変動するでしょう。そのような様々な要因を予測しながら価格変動を追いかけると面白いと思います。証券も同様です。

証券の種類は27くらい、上場している会社は2000以上あります。証券会社の営業マンでも、すべての証券、株価の動向を把握することはできません。ですが1つや2つ、学生にしてみれば就職したい会社、興味のある会社の株価や物価を新聞等で確認して、予測を立てながら見てほしいと思います。そうした物価の変動、社会の変動を身近に感じていることが、金融に携わるかに関わらず、社会人になるうえで重要になるのではないのでしょうか。

岡本 安明 (おかもと やすあき)

1956年生まれ。1979年、追手門学院大学経済学部卒業。同年、
山種証券株式会社入社。 1 982年、岡安商事株式会社入社。
1998年に同社代表取締役社長に就任。現在は代表取締役会長。そのほか日本商品委託者保護基金理事、関西商品取引所(現大阪堂島商品取引所)理事長、株式会社日本商品清算機構(JCCH)取締役などを務める。

世界中で利用されている先物取引は大阪発祥だった