TBSロンドン支局長豊島歩氏に問う
ロシア、イギリス、そしてジャーナリズムとは?
2015年本誌遠藤編集委員は、TBSモスクワ支局にてインターンシップを経験した。その時彼は豊島支局長に指導を受け、人生観の変わる程の大きな影響を受けた。伝え聞く同氏の印象は、情熱的な中にも本質を鋭く見抜く方であるという。2016年豊島氏は、長きに渡ったモスクワ支局勤務から支局長としてロンドン支局に移動された。今回、ロシア的世界観と欧米的世界観の両方に精通している稀有な人物として再度ロンドンの地で取材をさせて頂いた。
※本取材は平成29年9月6日に行われたものです。(本誌7号掲載)
日本と通底するロシアの精神性
ロシアは、地理的にもヨーロッパに非常に近い位置に存在していながら、ヨーロッパとはまるで中身が違います。またそれをコンプレックスとして認識している節があります。しかしヨーロッパにコンプレックスを抱いているとは言え、アジアを軽視しているといった印象は受けません。私は、ロシアには親日的な人が多いと感じています。特に日本人の精神性や「道」のような美学への憧れを持っていると感じます。また神秘主義と呼ばれるものですかね。ロシア人は元からロマンチストで、精神性や神秘性を重視します。ですからその様なものに強いシンパシーを感じるのでしょう。
例えば日本の武道は、一般のスポーツとは異なり、ただ勝てば良いというものではありません。技を極めると同時に精神を極める事が重要視されます。そういう事をロシア人は、理解している様な気がします。2015年、日本からの武道団がモスクワで剣道や柔道を披露しました。驚いたのは突然プーチン大統領がお忍びで現れたことです。護衛もなく、柔道の山下泰裕さんと話してすぐに帰りました。それを見て大統領が魅かれているのは、武道の技ではなく精神的な「道」では?と感じました。日本人とロシア人は目に見えないものに価値を置くという点で共通しています。
またもうひとつは、歴史的に日本とロシアでは大義の前では、命が軽んじられる傾向が見られます。人の英雄的な死を、国家の物語として喧伝し、自己犠牲が国や民族を護持すると認識しているところがあるように思います。この点においても日本人とロシア人は似ていると感じますね。即ちロシア人は、ヨーロッパの皮を被ったアジア的な精神世界の住人であるのかもしれません。余談になりますが、日本でカレンダーなどのプーチングッツが良く売れているようです。日本人は、プーチン大統領の政治・外交等の具体的な動向より、元スパイの経歴や、カリスマ的なイメージに惹かれるところがある様です。こんなところも日本人の神秘主義の表れなのかもしれません。
体感したロシア人の本質
海外勤務で最も苦労することは、語学はもちろんですが、人との付き合いですね。特にロシア人との付き合いは、驚きの連続です。コミュニケーションにおいて、受け答えの予測のつかないものばかりです。それに疲れ切って帰国してしまう人もいるくらいです。そういう試練を受け止められたら、ロシア人の本質に迫れるチャンスも出てくるのでしょうが。
ロシアに赴任した頃は、食糧事情も良いとは言えず、日本にいたころの様にはいきません。今思えばレトルト食品には随分助けられましたし、日本の食品技術の高さには驚かされましたね。その後段々と物質的に不便な事に慣れていき、元々色んなものを持ち過ぎていたということもありますが、生活できる最低限のものだけを持ち、本当に必要なものだけを買うようになりました。日本にいた頃のように、モノで溢れ返っていることに意味があったのか、反省するようになりましたね。
ロシア人の御宅を訪問する機会がありましたが、日本の家庭に比べて何もないという印象を受けました。しかしロシア人はとても幸せそうですね。一緒に仕事をしていても本当に感じます。私は、彼らのそういった姿を見て多くのことを学びました。例えば労働に関しても「本当に大事なことは何だろう」「テレビ受けするものではなく、本当に日本に伝えなければならないことは何か」ということを真っ先に考えるようになりました。とにかくロシア人は物質に頼らず生き抜こうとする力が凄いです。何に対しても貪欲で、何もなくてもなんとかするパワーがある。そういう彼らの姿には、尊敬の念すら抱きました。ロシアでは自分自身の力で、これまでやってきたつもりでしたが、そうではなかったことに気付かされました。ロシアの風土が私の人生観にもかなりの影響を及ぼしていたのですね。ロシアにいる日本人は皆そうだと思いますよ。ロシアは「何とかする力」を我々に教えてくれたわけです。
「合理性」を追及する国
1961年ロシアは、世界で最初に宇宙に到達しました。その船体のデザインは、決して良いとは言えない。むしろアメリカの方が良いですが、ロシア人の合理性というのはそこにあるのです。ロシア人は、「到達させねばならない目標」という一点に向かって、突き進む性質があるのです。これは私の体験談ですが、初めて貰ったロシア語の教科書にとても分かりにくい絵が載せてありましてね。そこで私は、先生に「イラストレーターを雇えばいいのに」と正直に言ったのです。そこで返された先生の答えは「大事なのは概念を理解する事であって、絵がきれいな事ではない」といったものでした。もし我々が創ろうとすると、デザインやレイアウトに工夫を凝らしたりするのでしょうが、彼らは形がどんなものであろうと、創るという目標に到達出来たらいい訳です。彼らの目標意識、そこに到達する為には何でもするという目的意識の強さは、政治・外交にも現れている気がします。
ソチ五輪の時もプーチン大統領の目標達成意識の強さをありありと見せつけられました。工事が遅れていると分かれば、視察をした担当者をどんどん首にして行き、とにかく間に合わせる為に金と人を惜しまず投下してロシアの底力を見せつけました。その強靭さがある限りロシアは決して沈まないなと私は思いました。実際にロシアは今、長い期間にわたって経済制裁を受けていますが、ロシア人は耐えるだろうなと思っていたら案の定耐えていますし、表向きは全くビクともしない印象を受けますね。
日本人が持つイメージとの乖離
日本人がロシアを訪れる機会はあまりないので仕方ないですが、ロシアというと「怖いプーチンと軍事国家」等々の、漠然としたイメージしかないのではないでしょうか? 一般的な日本人の持つロシアのイメージってすごく悪いですよね。ロシアのことを本当に知りたいと思っている学生は、かなりいると思うのですが、そういうことを教えてくれる人があまりいないようです。仮にいてもロシアに長年住んでいて、日本に現状を伝える機会があまり無いなどで、結局日本国内でロシア事情を発信できる人が継続的には、いないようですね。
民間外交から日露関係は進むとも言われていますが、日本に於ける最新のロシア情報の少なさは、今後の日露関係に向け改善すべきだと思います。 私自身、最初にロシアについて勉強し始めた時に、まず本の少なさに愕然としました。あれだけ知られている国であるにも関わらず、本屋には何でこんなに少ないのだというくらい本がない。雑誌も少ないし、文法書も辞書もひどかった。最近では若い人が書いた文法書も参考にさせて貰いましたが、それ以外は参考になりませんでした。英語に比べたら、教材不足であるのは一目瞭然ですね。
実際のロシアの姿というものが日本ではあまりにも知られていないのですよ。ロシアにもVOUGEなどのファッション雑誌があって、アメリカなどと同じようなクイズ番組があって、スタジオやCGも欧米と遜色ないレベルです。電波状況に至ってはむしろ東京よりも良いくらいです。そういう事実が全くもって発信されていない。旅行雑誌に書かれているのはマトリョーシカやピロシキなどのイメージばかりで、今の姿が載っていない。こうした点はメディアの責任かもしれません。
フィルター越しのロシア
今のロシアでソ連を知っているのは、40代以上の世代です。20代より下の世代はソ連という時代すら知らない訳です。しかし、ソ連時代から今のロシアまで、この国独自のナショナリズムが消えることはありませんでした。この国のナショナリズムの役割は、長い間体制のシステムを支えた柱というよりは、この国の基盤=求心力となってきたと私は捉えています。むしろそのナショナリズム無くして、ロシアという大国をまとめ上げるという事は至難の業だと思っています。
国民一人一人が勝手に動く志向が強いため、力で束ねて、国家として成立させているのです。全体主義的な見方もありますが、ロシアは流れとしてそこに行きついているのであって、目指そうとしてやっている訳では無いのです。「あの国にはその方法しかない。」ということです。西側からは専制国家だという声も聞こえてきますが、では逆に専制主義以外にあの国を治める方法があるのかと聞かれたら答えに困ることでしょう。こうした議論は日本の報道でも取り上げる必要があると思います。
日本は戦後、欧米的な文化の中で生きてきたので西側のフィルターを掛けて物事を見ることが殆どです。しかし、そのフィルターでロシアを見ると本当のロシアの姿は見えてこない。逆にロシアを良く知るあまり、ロシア寄りのフィルターでロシアを見ても、本当のロシアは見えてはきません。私はロシアを通行人の立場でしか見る事は出来なかったけれど、ロシアの現状を俯瞰しました。伝えたいことが沢山ある。しかし、日本ではロシアに対する見方に、偏りがあると感じることがあります。そうしたフィルターから自分達のイメージに沿った情報のみを選択し、実際のロシアの姿を見られないというのは、日本にとってもマイナスなのではないでしょうか。
例えば、ロシアの文学やバレエなどの芸術分野に関して、ソ連時代を引きずってか、プロパガンダでは?と主張する意見もあります。ボリショイバレエを見て単純に綺麗だと思うことはあっても政治的プロパガンダとして、洗脳されるような時代ではない。ロシアのプロパガンダに多少注意すべきですが、行き過ぎた見方を持つ人が日本にもいます。
こうした現状が変わるには、世代交代を待つことも必要なのかもしれません。あと30年したら、新たな世代がフェアに現状を見るでしょう。そうなれば時代も変わります。今は、インターネットが普及し高速で情報が行き来する時代です。つまり、ロシアには面白い事も沢山あるのだと拡散できる時代ですし、そうした面もどんどん広がってほしいですね。
とにもかくにも一度、ロシアを訪れてみない事には話が始まりません。好きか嫌いかは別として興味を持つ、その興味を持つという思考が大事なのです。まず、その輪を広げていく活動を促進していくべきなのではないでしょうか?
私はモスクワに赴任する前、会社の部長に、お金は出さなくていいからモスクワ行かせてほしい、その為に一週間ほど休ませてほしいと頼みました。なぜなら、これから自分が何年も住むのにも関わらず、ロシアがどんな国なのか全く知らなかったからです。赴任が9月からだったので6月頃に妻を連れてモスクワに行き、色々な所を回りました。思った以上に開けた印象で、行く前に抱いていた暗いイメージとは大違いでした。大きく印象が変わったのですね。結果的に私も妻も生活には支障がない、大丈夫ということで落ち着きました。これも行かなければ分からなかったことですし、短時間でも長期間でもとにかく自分の目で確かめてみるということが大切だと思いましたね。
モスクワ支局長になった経緯
たまたま次のモスクワ支局長に、という話になって。元々番組に関わっていたので、年に何回かは海外出張がありましたが、その頃から「海外で働いてみないか」という話を、何度か頂いていました。しかし、その度に「番組を作っている方が楽しいから」と断っていたのですが、ある日モスクワに行かないかと言われましてね。学生時代からアメリカの大学に留学していましたし、入社後は外信部に配属されていたので自分としても番組以外なら、海外報道を中心にやっていきたいと思っていました。ということでこれも御縁だろうと考え、行こうと決断しました。
外の世界とメディアリテラシー
様々な情報が行き交う場所で働いていると、リテラシーというのがまず働きます。フィルターを通して見た時に「この情報は正しいのか、間違っているのか」まず判断できる力が高まります。「この情報が欧米型なのかロシア型なのか」ということです。例えば、洗濯機の中に自分がいたとして、そのまま回っていると自分が洗濯機の中にいるということが分からないですよね。洗濯機の外に出て、初めてこれが渦を巻いているものだと認識できるのです。ロシアに行くことは、その洗濯機から自ら出る能力を身に着けることなのです。そこから出て初めて、そのリテラシーや経験をフェアな形で使うことができるのではと思います。だから、モスクワに駐在したことで自分の中にもそういう機能がある程度身に着いたかと思います。この機能のある人がロシアを語るならば、「ロシアの本当の姿」というものを情報の受け手に正確に理解してもらえるのではないでしょうか。これはロシアだけではなく、他の国に関しても言えることです。新聞記者にはこの機能を持つ人が多いという印象を持っています。彼らは取材の過程で色々な国に行って、世界の様々な文化を身にもって感じているように思います。しかし一方で、滞在先の国に対して同化し過ぎてしまう人もいます。或る国の在り方に賛成、または反対という極端なスタンスをとってしまうわけです。その様な場合でもそういう人達が送る記事は、日本側のデスクがバランスをとると思います。ただ、問題は現場の記者でない人が記事をまとめること。また、日本の読者に分かり易くする努力の中で現場感のない記事になる可能性があることです。
ロシア流ジャーナリズムのジレンマ
メディア関係にいると、ロシアではジャーナリストが政府に盗聴や盗撮によって監視されているという話を聞くことがあります。「そんなことを国家がやるのは言語道断だ」と思われるかもしれませんが、それはあくまで日本や欧米からの視点で、ロシア側から見れば、ただ国益を守っているに過ぎないのです。つまり、仮に有事の際にメディアが自国にとって不利益な報道をしようとしたら、その様な妨害を国として見逃すことは出来ないでしょう。「彼らは彼らの理屈を通しているだけだ」というわけです。
とはいえ私から見て「ロシアは報道、表現の自由が保障されている」とはとても言えない状態です。それでもそこには彼ら流の〞表現の自由〞があると主張しています。例えば、政府はロシア市民の安全と生活の維持が仕事なのだから、政府のやり方を非難しないのであれば、後は自由に報道してよいといった具合です。ロシアによる報道妨害は、ロシアにとってみれば自国の国益が不利益を被らないための〝当たり前の措置〞なのだなと、私は理解しています。
しかしもし我々が国家や他者から報道妨害を受けた場合、抗うための法や、システムがあるわけではないのです。それは政府自らが報道規制や妨害を結果的に認めているということになるかもしれません。そしてそれはロシアのジレンマの1つとも言えるでしょう。なぜなら体制批判的な報道を排除することでしか「何も問題がない民主国家」像を世界に示せないから。ロシアとしては、自国にも欧米型の報道、インターネットの自由が存在している、中国とは違うことを他国に示したい。しかし、実際は中国の様にメディア全般の監視をしているわけです。その点でロシアが外部から批判を招くような行動を表立ってすることはないですが、自粛するよう促す形をとる訳です。忖度政治みたいなものですね。ロシアはこのように西側世界に向けて自国に民主主義があることを、自由主義になっているという事を示したいのです。かつてはG8の一角としてその願いが叶っていたわけですが。 しかしやはりロシアは独自の存在で欧米の理屈では生きられない。クリミア併合の際にプーチンが演説で「もう嫌だ」発言しました。これは冗談じゃない、もうお前らの言いなりにはならないと堪忍袋の緒が切れた形でした。この話にも通じて言えることですが、ロシアには様々な面においてヨーロッパ人になりたくてなれなかった歴史的ジレンマが現れているのかもしれません。
ジャーナリストとして比較するロシアとイギリス
弊社においてモスクワ支局長を務めた後にロンドン支局長を務めるケースは前例がないと聞いています。モスクワを務めたことで、ロシア側とEU側の両方の視点で情報を考えられるので、ニュースの精度を上げるという意味でも、自分にとっては良い機会だったと思います。ロシアにいたからこそ、情報の受信、発信方法に目覚めたのだと思います。
ロシアで働いていた時は色んな知識や経験を積み重ねていくという感触でした。国際政治がメインでしたので、日々中東や中国、アメリカ、ヨーロッパの動向に目を向け、常に勉強する必要がありました。とにかく毎日情報収集を行っていましたね。その過程で多くのロシア人と話をしていくうちに、段々ロシア人の気質というものも掴めてきました。そうすると、仕事の上でも、「なぜプーチンはこのような判断をしたのか」が理解できたりして物事をより深く見られるようになりましたね。
一方、ロンドンに来てから目を引くことは何といってもテロの多さですね。この場合、ロシアで養われた積み重ね型の姿勢というよりも対応型、脊髄反射型の姿勢、つまり臨機応変に対応することが求められるようになりました。しかし一方で、スペインやフランス等の歴史を学ぶ必要もあります。そして、最も重要なのはEUの歴史、イギリスの歴史に対する深い理解ですかね。加えてEUの対中国政策、対ロシア政策も把握する必要があります。何より、EUに加盟している国が多いので、広く浅くでしか把握できていないのは今後の反省材料です。
この点、ロシアにいた時の方が勉強しているかなという感じはしますね。つまりロシアは様々なものが複雑に絡み合っている国と言えます。だからこそロシアを見る時に他の国と同じような見方をしていても意味がないのです。最初はヨーロッパ型のフレームでロシアを見ることができたとしてもそのフレームはいつか、どこかで必ず破綻してしまいます。そこで必要となってくるのが、自分の今まで持っていたフレームを変えるということですね。フレームをロシア型に変えて、事象を再考するのです。「話が通じない、文化が通じない」その様な経験は他の国においても往々にしてあることですが、特にロシアという国は1回現地に踏み込んでみない事には理解できない国だと私は思います。つまり、文化を日本人に分かるように還元するプロセスの作成にも多くの時間を費やすということですね。しかし、その文化を理解しない事には、プーチンの発言の真意をつかみ取る事が出来ません。彼の発言をそのまま受け取る事には意味がありません。その発言の背景として「何があるのか」「どのような意図があって言っているのか」これを一般の日本人が理解するには誰かがその答えを提供することが必要です。つまり、「翻訳」する存在が求められるということですね。
イギリスのナショナリズムと日本人の誤認
日本では「Brexitの後にイギリスではナショナリズムが盛り上がりを見せている」といった報道がずっとされていました。私自身、ロンドンに来て初めて分かった事なのですが、イギリス人の持つナショナリズムは日本でいうナショナリズムとは違うのですね。そしてロシアとも違うのです。
例えばロシアのナショナリズムは仲間意識が非常に強く、土着的なものといった印象を受けます。その一方で、イギリスのナショナリズムは、まさに大英帝国の誇りを失わない、EUには屈しないといった概念的なものだという印象を受けます。今、既成のターム=用語では説明できないことが、沢山あります。新たな用語を作り出す必要があるように思うのです。フランスの大統領選挙にルペンが出馬したことを受け、日本では「ナショナリズム、そして極右政党の台頭」などと報道されました。しかし、それは日本で定義した場合の話であり、実際は違うのではないかと思います。例えば、極右政党の支持者を取材すると「良く分からない人(移民)が増えていて、怖いから向こうに行ってほしい」という素朴な感情を吐露していた人も多かった。この感情は、「いわゆるナショナリズムの範疇なんだろうか?」それはまた違うように私は思いました。
そもそも日本の報道が行っている定義の仕方そのものが古いのです。日本のメディアは今の時代に適した新しい言葉、的確な言葉で表現をするべきですがいまだに旧来型の定義と言葉を併用しています。先ほどのイギリスのBrexitとナショナリズムの話に戻りますが、このナショナリズムには、「これからイギリスはどこに向かって行くのだろう」という将来に対する不安が反映されています。しかし、今のイギリスは、移民が混在していてイギリス人と言われるイギリス人はいません。「白人のことをイギリス人というのか」と言われれば勿論違いますよね。 別々の方向で色々な利益を考えている人が集まっている国であって、そこに住む人達が皆同じ価値観を以てナショナリズムを持つかと言われれば、持たないですよね。つまり、一口にナショナリズムといっても、多様性がある。我々の抱える諸問題の輪郭を把握するためにも、それぞれの移民、階層等々に応じてナショナリズムの中身が何なのかを理解し、丁寧に掬い上げていく言葉を操る必要があると思います。
Brexitでは、イギリス内部のナショナリズムの多様性はともかく、「EUに対して私達はどうするのか」という選択において、EUから離脱するという答えが出ました。これはイギリス全体を国家として一つの法人の様に考えるなら、EUにプライド=ナショナリズムを見せたということになります。しかしその後の先の見えない交渉や経済状況を見れば、社会的な階層によっても違うでしょうが「個人のプライドは傷ついた」という状況になるのかもしれません。具体的に言えば、第二次世界大戦などを経験してきた世代は傷つくところがあるかもしれませんが、20、30代の人々は彼らのような”偉大な”歴史というものを共有できません。むしろ、これから自分の子供を育てることになる彼らにとっては、より現実的な問題としてBrexitと向かい合っています。イギリスと日本は現在も今後も重要なパートナーです。「イギリスのBrexitでイギリス国民が求めたものは何だったのか?」情報を正確に掴み、将来を間違わないよう、日本の情報リテラシー力が問われています。
豊島 歩(とよしま あゆむ)
上智大学外国語学部卒業 サンディエゴ州立大学留学 TBS入社後、モスクワ支局長、ロンドン支局長等を歴任